2021/12/15

教育虐待と教育の意味

教育虐待

教育虐待という言葉を目にするようになりました。とくに中学受験において出てくる言葉です。中学受験は親子の受験と言われているので、教育虐待に至るケースが多いのでしょう。ではそもそも教育虐待とはどのように定義されるのでしょうか。

教育虐待とは「親が教育のためという言葉を口にしながら、子供が耐えられる限界を超えるまで勉強やスポーツ、音楽などを強制すること」(わが家の教育、やりすぎ?…教育熱心と教育虐待のボーダーライン)で、教育の名の下で行われる虐待です。

こうした行き過ぎた教育が子どもたちを苦しめる原因となっています。ではこうした現象はなぜおこるのでしょうか。教育ジャーナリストのおおたとしまささんは以下のように説明しています。

おおたさん:「教育」と「人材育成」がごっちゃになっているのですよ。そもそも教育とは、子どもの持つ能力を、その子らしく最大化して自己実現し、かつ、余った力を社会に還元してより良い社会を作ること。つまり、「教育はまずその子ありき」なのです。

一方で、人材育成というのは、なんらかの目的に合致した人を育てることです。例えば、「わが社にはプログラムができる人材が必要」というふうに。つまり、「人材は目的ありき」なのです。

本来「教育」とは、「どうしたらこの子が輝けるよう育つのだろう?」と、その子を見て考えるべきものなのに、その子を見ずに「これからの時代はこんな人材が求められているから、そういう人材にするためにどうしたらいいのか?」と、型にはめていく発想になってしまっているわけです。

教育虐待「普通の親が追いつめられ、狂い始める…」その正体は?【「教育」が「虐待」に変わるとき 第1回】

こうした型にはめる教育のために追い詰められるのは子どもたちだけではありません。親も同じように追い詰められてしまいます。たとえば受験競争に勝った子どもはその親の教育が注目されます。そして親が評価されるわけです。

まるで親のお陰で子どもが合格したかのような書き方になるわけです。もちろん子どもの人生において、親の影響がないとは言えません。しかし学校の先生や友達からも影響を受けています。同じ子どもでも兄弟でまったく違うということもあります。

現在、社会の変化にともない、未来の社会に対応できる能力を育てる必要性が言われています。しかしその未来が予想されているものになるかは誰にもわかりません。そんな不確定な未来に向けて教育をするよりも、現在の子どもたちに向き合った方が良いのではないでしょうか。

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